6月1日の続きです。
私自身必ずしもそうであるとは考えたくないものである。
なぜなら消えゆく伝統文化、時代の流れに沿って、
本来あるべき姿を現時代にあわせ変化する文化、
変化しつつある現代の文化もあるということを
考えてみてはどうかと言いたいのである。
當山善堂氏、自身の著書『精選八重山古典民謡集』の
中で次のように書きしるしている。
不整・不定の部分はあるものの、荘厳な曲調に加え
普遍的な考の道を説き、親の深い情愛を描いた
素晴らしい内容の歌詞であると書き記している。
また、盆の月(旧暦七月)に入ってから旧盆の終わるまでの
短期間しか歌えないといういささか不合理な(慣わし)
に縛られている。
この慣わしが八重山全域に共通しているものかどうかは知らないが、
私自身は習慣にとらわれず他の
歌曲と同じように通年で歌い、稽古場においても時期を
選ばず門弟の希望にこたえ、いつでも伝授していると
記されている。
また、こうも述べている。伝統は、しきたりを重んじて
古い形を頑なに保持すべきものである、と同時に時代の新たな
息吹を吸収しながら不備な部分を補い不合理なありようを
克服していくべきものである、いう二律背反(にりつはいはん)を
内包しているもののようであるとも述べられている。
誠に私自身も同様な考えを持つ一人である。
そのような考えの中から『無蔵念仏節』も本当の意味を含めて
隠れたる教訓歌のひとつとして、本題に取り上げたのである。
地球温暖化、家庭内暴力、幼児虐待、いじめ、不登校といった、
この、ご時世の中に歌われるべき教訓歌であってほしいものである。
何故、今のご時世の中『無蔵念仏節』なのかそれは読者自身が
それぞれ立場で考え理解してほしいものである。
隠(かく)れたる教訓歌『無蔵念仏節』で終わらせるのではなく
八重山、いや沖縄,、日本本土始め政界的共有産物として社会教育、
学校教育における産物として、位置づけ昔の習慣にとらわれず教訓歌と
認め、八重山から電波に乗せ全世界に宇宙から共有産物として
発信することを提案したい。
おわり
八重山古典民謡研究学会会長
私自身必ずしもそうであるとは考えたくないものである。
なぜなら消えゆく伝統文化、時代の流れに沿って、
本来あるべき姿を現時代にあわせ変化する文化、
変化しつつある現代の文化もあるということを
考えてみてはどうかと言いたいのである。
當山善堂氏、自身の著書『精選八重山古典民謡集』の
中で次のように書きしるしている。
不整・不定の部分はあるものの、荘厳な曲調に加え
普遍的な考の道を説き、親の深い情愛を描いた
素晴らしい内容の歌詞であると書き記している。
また、盆の月(旧暦七月)に入ってから旧盆の終わるまでの
短期間しか歌えないといういささか不合理な(慣わし)
に縛られている。
この慣わしが八重山全域に共通しているものかどうかは知らないが、
私自身は習慣にとらわれず他の
歌曲と同じように通年で歌い、稽古場においても時期を
選ばず門弟の希望にこたえ、いつでも伝授していると
記されている。
また、こうも述べている。伝統は、しきたりを重んじて
古い形を頑なに保持すべきものである、と同時に時代の新たな
息吹を吸収しながら不備な部分を補い不合理なありようを
克服していくべきものである、いう二律背反(にりつはいはん)を
内包しているもののようであるとも述べられている。
誠に私自身も同様な考えを持つ一人である。
そのような考えの中から『無蔵念仏節』も本当の意味を含めて
隠れたる教訓歌のひとつとして、本題に取り上げたのである。
地球温暖化、家庭内暴力、幼児虐待、いじめ、不登校といった、
この、ご時世の中に歌われるべき教訓歌であってほしいものである。
何故、今のご時世の中『無蔵念仏節』なのかそれは読者自身が
それぞれ立場で考え理解してほしいものである。
隠(かく)れたる教訓歌『無蔵念仏節』で終わらせるのではなく
八重山、いや沖縄,、日本本土始め政界的共有産物として社会教育、
学校教育における産物として、位置づけ昔の習慣にとらわれず教訓歌と
認め、八重山から電波に乗せ全世界に宇宙から共有産物として
発信することを提案したい。
おわり
八重山古典民謡研究学会会長