読者のみなさんお待たせ致しました。
熱も下がり元気を取り戻しました。
毎日のご訪問ありがとうございます。
『でんさ節と無蔵念仏節』
沖縄県は、全国でもまれに見る民謡の宝庫である。県内各地には独特な歌がある。
(とぅばらーま)や(ナークニー)(ションカネー)などがあげられるが、
私が今、特に注目しているものが教訓歌である
八重山の(でんさ節)や宮古島の(なりやまあやぐ)沖縄本島の(てぃんさぐぬ花)
などは代表的な教訓歌として、昔から多くの人々に歌われ親しまれている。
その外にも県内各地にいくつかの教訓歌があるともいわれている。
當山善堂氏、自身の著書で『精選八重山古典民謡集』で「でんさ節」は
教訓歌の中でも代表的なもので、八重山はもちろん沖縄県を代表する
教訓歌であり多くの人々に親しまれていると、書きしるしている。
今回、私は、でんさ節のほかにこの『無蔵念仏節』を教訓歌ととらえ
その理由を記すことにする。
歌詞は一番から五番まであるが紙面の都合上、一番のみとし以下省略する。
一、 親ぬ御恩は 深きむぬ 父御ぬ御恩は 山高さ
母御ぬご恩は 海深さ、とある。
歌意は、親の恩は深いもの、山の高さは測ることはできるが父親のご恩は
計り知れない。海の深さも測ることができるが母親のご恩は計り知れない。
と言っており大事に親に育てられた子供たちに両親に対しての敬意を
持つようにとのことである。ところで「でんさ節」はどうだろうか
「でんさ節」においても(親子の和合)をうたっていると私自身解釈する。
歌詞・歌意については當山善堂著『精選八重山古典民謡集』を参照してもらいたい。
「でんさ節」「無蔵念仏節」とも親子関係、家庭円満について深く強く
教訓歌として表現されているが、常日頃歌うのは「でんさ節」で何故
「無蔵念仏節」が歌わられなかったのか不思議である。「無蔵念仏節」も
「でんさ節」同様。常日頃から歌い親しんではどうかと思うところである。
これまで「無蔵念仏節」と言えば旧盆の歌としての解釈が大である。
旧歴七月の盆に先祖の御霊の供養、仏前での踊りの披露といった暗い様相と、
捉えている感じがするものである。八重山の人々にとっては絶対的に考えても
これは、八重山における行事の一つであると開口一番そうであると答えるのが常識だろう。
しかし、・・・・・・・・・・・・つづく
熱も下がり元気を取り戻しました。
毎日のご訪問ありがとうございます。
『でんさ節と無蔵念仏節』
沖縄県は、全国でもまれに見る民謡の宝庫である。県内各地には独特な歌がある。
(とぅばらーま)や(ナークニー)(ションカネー)などがあげられるが、
私が今、特に注目しているものが教訓歌である
八重山の(でんさ節)や宮古島の(なりやまあやぐ)沖縄本島の(てぃんさぐぬ花)
などは代表的な教訓歌として、昔から多くの人々に歌われ親しまれている。
その外にも県内各地にいくつかの教訓歌があるともいわれている。
當山善堂氏、自身の著書で『精選八重山古典民謡集』で「でんさ節」は
教訓歌の中でも代表的なもので、八重山はもちろん沖縄県を代表する
教訓歌であり多くの人々に親しまれていると、書きしるしている。
今回、私は、でんさ節のほかにこの『無蔵念仏節』を教訓歌ととらえ
その理由を記すことにする。
歌詞は一番から五番まであるが紙面の都合上、一番のみとし以下省略する。
一、 親ぬ御恩は 深きむぬ 父御ぬ御恩は 山高さ
母御ぬご恩は 海深さ、とある。
歌意は、親の恩は深いもの、山の高さは測ることはできるが父親のご恩は
計り知れない。海の深さも測ることができるが母親のご恩は計り知れない。
と言っており大事に親に育てられた子供たちに両親に対しての敬意を
持つようにとのことである。ところで「でんさ節」はどうだろうか
「でんさ節」においても(親子の和合)をうたっていると私自身解釈する。
歌詞・歌意については當山善堂著『精選八重山古典民謡集』を参照してもらいたい。
「でんさ節」「無蔵念仏節」とも親子関係、家庭円満について深く強く
教訓歌として表現されているが、常日頃歌うのは「でんさ節」で何故
「無蔵念仏節」が歌わられなかったのか不思議である。「無蔵念仏節」も
「でんさ節」同様。常日頃から歌い親しんではどうかと思うところである。
これまで「無蔵念仏節」と言えば旧盆の歌としての解釈が大である。
旧歴七月の盆に先祖の御霊の供養、仏前での踊りの披露といった暗い様相と、
捉えている感じがするものである。八重山の人々にとっては絶対的に考えても
これは、八重山における行事の一つであると開口一番そうであると答えるのが常識だろう。
しかし、・・・・・・・・・・・・つづく