沖縄各地の遊行芸・京太郎の系譜
さる2月23日(日)、国立劇場おきなわ・大劇場において沖縄各地の(京太郎の系譜)民俗芸能祭が開かれた。そのなか「遊行芸能者・チョンダラーの歌」鳥刺し舞、八重山に伝わる念仏歌で、私もその一員として出演させてもらった。その内容について報告をしたい。
入嵩西康文(才蔵)新城亘(太夫)大城みゆき(太鼓)
京都からきた太郎のことを京太郎とよび、沖縄ではいつしか「チョンダラー」と呼ばれるようになった。
チョンダラーという言葉は、沖縄本島の那覇周辺では、みにくいほど派手な服装をしている人々を「チョンダラー」と呼んだ。また、中頭・中城周辺では「肩車」のこと、渡嘉敷島では「案山子(かかし)」のことを指す。奄美徳之島には「キョウダラ」という踊りがある。八重山では「キョーダラ」「キョンダラー」といい、長話やおどけるという意味があるようだ。ここでいうチョンダラーとは、エイサーの演舞時に出てくる顔を白塗りした道化役のことではありません。
現在、沖縄市泡瀬、宜野座村宜野座、読谷村高志保、読谷村長浜、名護市呉我区、に伝承されている。これは旅芸人であるチョンダラ―(京太郎)芸の系統をひく芸能が舞台化され、その一部が沖縄本島各地に伝わり、地域の村踊りや豊年祭などで演じられています。その中でも沖縄市泡瀬のチョンダラ―は、明治30年代に寒水川芝居で舞台芸能として創作されたものといわれ、明治時代に芝居役者から地域の青年達に受け継がれ100年以上も継承されています。
始めに、チョンダラー歌の「念仏歌」を披露した。もともとチョンダラーたちは、万歳系の歌と念仏歌系の歌は別々に歌っていたが、生活の拠点が一緒になると、お互いの芸を共有するようになったといわれる。彼らは葬式やお盆、年忌などでは念仏歌を唱えていた。
沖縄の念仏歌は、浄土宗の流れをくむもので、袋中上人(1603年来沖)らによって伝えられたと知られている。本土から渡来した「念仏聖(ヒジリ)」あるいは「遊行(ユギョウ)僧」らは、沖縄では「念仏者(ニンブジャー)」と呼ばれ、「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)を唱えていた。彼らの多くは、声明などという仏教音楽の本流ではなく、宗教的な境地を求めるというより、小道具を用いた遊行芸人としての性格が強かったようだ。
新城亘が小浜島のお盆で歌われている《ミンマン念仏》を、親不孝をする子は地獄におち、親孝行をする子は仏に手を引かれ阿弥陀の浄土に行けるという内容のものである。歌の導入部に「南無阿弥陀仏」と唱えてから、本歌にうつる歌い方は、まさに念仏聖の雰囲気をただよわせる。
そして、私が新川に伝承されている《七月念仏》を歌った。
この歌は、両親を亡くした子が山寺にこもり、物の哀れを悟り、両親のためにお経を書き詠んで捧げたといった内容である。
鳥刺し舞においては、これまで舞台で見られなかったセリフを入れてみた。
この年になると若いころと違いなかなかセリフが出てこないものだ。
セリフがすらすら言える努力をし、進化した京太郎芸能を県外、沖縄本島公演だけでなく、近い将来八重山公演を実現したいものだ。
元気の間に・・・・・。
さる2月23日(日)、国立劇場おきなわ・大劇場において沖縄各地の(京太郎の系譜)民俗芸能祭が開かれた。そのなか「遊行芸能者・チョンダラーの歌」鳥刺し舞、八重山に伝わる念仏歌で、私もその一員として出演させてもらった。その内容について報告をしたい。
入嵩西康文(才蔵)新城亘(太夫)大城みゆき(太鼓)
京都からきた太郎のことを京太郎とよび、沖縄ではいつしか「チョンダラー」と呼ばれるようになった。
チョンダラーという言葉は、沖縄本島の那覇周辺では、みにくいほど派手な服装をしている人々を「チョンダラー」と呼んだ。また、中頭・中城周辺では「肩車」のこと、渡嘉敷島では「案山子(かかし)」のことを指す。奄美徳之島には「キョウダラ」という踊りがある。八重山では「キョーダラ」「キョンダラー」といい、長話やおどけるという意味があるようだ。ここでいうチョンダラーとは、エイサーの演舞時に出てくる顔を白塗りした道化役のことではありません。
現在、沖縄市泡瀬、宜野座村宜野座、読谷村高志保、読谷村長浜、名護市呉我区、に伝承されている。これは旅芸人であるチョンダラ―(京太郎)芸の系統をひく芸能が舞台化され、その一部が沖縄本島各地に伝わり、地域の村踊りや豊年祭などで演じられています。その中でも沖縄市泡瀬のチョンダラ―は、明治30年代に寒水川芝居で舞台芸能として創作されたものといわれ、明治時代に芝居役者から地域の青年達に受け継がれ100年以上も継承されています。
始めに、チョンダラー歌の「念仏歌」を披露した。もともとチョンダラーたちは、万歳系の歌と念仏歌系の歌は別々に歌っていたが、生活の拠点が一緒になると、お互いの芸を共有するようになったといわれる。彼らは葬式やお盆、年忌などでは念仏歌を唱えていた。
沖縄の念仏歌は、浄土宗の流れをくむもので、袋中上人(1603年来沖)らによって伝えられたと知られている。本土から渡来した「念仏聖(ヒジリ)」あるいは「遊行(ユギョウ)僧」らは、沖縄では「念仏者(ニンブジャー)」と呼ばれ、「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)を唱えていた。彼らの多くは、声明などという仏教音楽の本流ではなく、宗教的な境地を求めるというより、小道具を用いた遊行芸人としての性格が強かったようだ。
新城亘が小浜島のお盆で歌われている《ミンマン念仏》を、親不孝をする子は地獄におち、親孝行をする子は仏に手を引かれ阿弥陀の浄土に行けるという内容のものである。歌の導入部に「南無阿弥陀仏」と唱えてから、本歌にうつる歌い方は、まさに念仏聖の雰囲気をただよわせる。
そして、私が新川に伝承されている《七月念仏》を歌った。
この歌は、両親を亡くした子が山寺にこもり、物の哀れを悟り、両親のためにお経を書き詠んで捧げたといった内容である。
鳥刺し舞においては、これまで舞台で見られなかったセリフを入れてみた。
この年になると若いころと違いなかなかセリフが出てこないものだ。
セリフがすらすら言える努力をし、進化した京太郎芸能を県外、沖縄本島公演だけでなく、近い将来八重山公演を実現したいものだ。
元気の間に・・・・・。